何の変哲もない繰り返される毎日に、それは起きた。
「蓮・・・起きて・・・」
朝、目が覚めると同時に聞こえて来た母親の擦り切れた声。
その声は震えていて、それだけで恐怖を募らせる。
とてつもなく嫌な予感がする。
こんな朝早くに、私はいつも起きられない。
起こされても、二度寝するかまず起きないのがいつもだ。
だが、いつもとは違うその母親が気になりすぐに起きた。
顔をあげ、上体を起こし、辺りを窺う。
するとそれはすぐ目に飛び込んできた。
違う、嘘だ、信じたくない・・・
その現状を受け入れたくないと、脳が全力で否定する。
けど目の前にあるものは現実で、それを裏付ける母親の一言。
「ソラが・・・逝っちゃった・・・」
僕の家には一匹の猫がペットとしている。
その猫は、毛が真っ白で、オッドアイだった。
左目が青で、右目が緑。その特徴を取って、名前は「ソラ」だった。
ソラは僕が生まれる前からこの家に居たらしい。
僕の生まれる丁度1年くらい前だ。
僕が生まれた時、ソラはやんちゃで、いたずらの好きな困った猫だったと言う。
だが、僕が生まれてからソラは大人しくなり、しかも僕の教育的指導までしてたと言う。
具体的には、まだ幼少期だった僕の遊び相手になってくれたり、手加減を教えてくれたり。
僕にとって、ソラは親であり、家族であり、そして掛け替えのない親友でもあった。
物心付いた時からずっと一緒に居るソラに、何ら不思議を感じる事は無かった。
それが当たり前。それが常識。そう、思っていた。
僕も年を重ね、大体小学校を卒業しようとしていた時か。
そのくらいに、ソラの生物的衰弱が著しく表れて来た。
この時、ソラの年齢は13歳。人間で言う80歳くらいだろう。
元々大人しくなっていた性格だったが、行動を必要最低限しか起こさなくなった。
ごはんを食べる、トイレに行く、水を飲む、寝床に帰る。
このくらいだ。
その時からすでに生物の辿り着く先と言うものを認識していた僕は、しかしそれを認めようとしなかった。
だって、一緒にいるのが常識なのだから。当たり前は、変わらないものだと、そう信じて疑わなかったんだから。
中学校に入った。
僕にとっての一つの節目に当たる中学校入学は、家族にとっても喜ばしい事であった。
家を出る前に、行ってきますと言う相手に、今日もソラが含まれる。
返事こそしないものの、若干耳が動いている事に気付いていた僕は、凄く嬉しかった。
学校での成績は中の上と言った所だった。
悪くはないが、対して良いとは言えない何とも言えないもの。
家に帰れば、ソラが居る。
いつもの位置に、いつものように。そこに居る。
ただいまと声を出せば、これまた耳を動かして返事をする。
実際に聞いていたのか分からないが、僕の愚痴を聞いてくれたり、むしゃくしゃしている時は隣に来て宥めてくれたり。
もう、僕にとってなくてはならない存在だった。
中学2年が終わりに近付いて来た時、親から信じられない言葉が出た。
「ソラは、もって今年・・・頑張っても来年には・・・」
肝心の部分が抜けていても、それが何を意味しているのかはすでに理解している。
今のソラは、本当に最期を迎える準備をしているのだ。
ある日を境に、食事もとらなくなり、水も飲まなくなり、寝床からほとんど動かない日が続いた。
もうわかっている。これが「最期」の予兆なのだと。
だが、信じない。
ただちょっとお腹の調子が悪いんだ。そう自分に言い聞かせて誤魔化す。
誤魔化して、いたのに・・・。
ソラは、死んだ。
今でも信じきれていないそれに、当時は何も考えられなかった。
朝、起きて、最初に見たのが・・・。
静かに、ただ静かにそこに佇む猫一匹。
「ソラ・・・」
か弱く、でもしっかりと発音した、その猫の名前。
いつもなら。いつもなら耳が、そう耳が動くはず。
声で返事しなくとも、何かしらの行動が返事の代わりだった。
のに・・・。
ピクリとも動かない。
耳も、尻尾も、体も、首も、手も・・・何もかも。
近寄ってみると、いつも見たソラだ。
いつもみたいに、ただ静かに寝ている。
いつもの場所に、いつものように静かに寝ている。
触ってみると、まるで冬場に放置された石の様に冷たかった。
いつもは暖かく、柔らかい温もりを感じるのに。
今のソラはただ冷たく、温もりなんて何一つ感じられなかった。
後から聞いた話によると、ソラは旅立つ寸前、小さく鳴いたそうだ。
猫と言う生物は、最期を隠れて迎えたがる。
ソラもそうだったらしいが、体力が尽きたのか、それとも意図的にこっちに来たのか・・・。
みんなの目の前で、最期の一言を呟いて旅立ったそうだ。
その声は、悲しみでも無く、苦しみでも無く、幸せそうで悔いなんて無さそうだったらしい。
そこで初めて、やっと脳が認識する。
ソラは、死んだ。ここにはもういない。
人が死んだら忌引きと言う休みがあるらしい。
ペットの死にそんなものは無い。
家で、ソラの傍に居たいのに、それを許してくれない。
隣に居たいのに、一緒に居たいのに・・・。
その日の学校では、ろくに活動出来なかった。
何をしてても頭の中にあるのはソラだった。
朝、最初に見たソラの様相が、頭から離れない。
初めて、「死」を知った時であった。
死の恐怖を知り、悲しさを体感し、寂しさを味わっている。
今でこそ誰でも言うようになってしまった「死ね」だが、そんな事言えなくなった。
死は、どこまでも恐ろしいのだ。
怖く、悍ましく、儚く、寂しく、悲しい。
火葬の日が来た。
ソラを、ソラのお気に入りだったクッションと段ボールで包み、運び出す。
僕が持っていた。
初めてソラを持ったのは、これだった。
最初で最期の、ソラの重みを知る機会。また涙が出て来た。
15年と一緒に居たのに、今まで知らなかった事がある。
それが、更に追い打ちをかけるようだった。
火葬の前の、お経を唱える時。炭を掛ける時も、ずっと涙を我慢してた。
火葬の直前、レーンに乗せられたソラを前に、担当の人が最期に触ってあげて下さいと言った。
家族は全員触ってあげていた。
僕は触らなかった。今でも凄く後悔している。
だが、こうでもしないと忘れてしまう。
結末のあるストーリーは簡単に忘れてしまう、僕の性格は、ここでも当たると危惧した。
だから、敢えて触らなかった。
触ればよかった、触りたい、そう後悔し続ける事で、忘れる事は出来ないから。
こんなことしか出来ない僕を、許してくれ。
大きな大きなボイラーの中に入っていくソラを、ただじっと見守る。
火が付き、燃やされ始めた。
それからある程度が経って、担当の人が「戻りましょう」と言った。
それに続き、戻ろうとした時、猫が居た。
全身の毛が真っ白で、少し太ってて、でも顔はしゅっとしていて・・・。
まるでソラだ。
見た瞬間に涙があふれて来た。
その猫はこちらを見据えて、ゆっくりと山を登っていった。
最期に、会いに来てくれたのかな。
2017年7月11日没。享年16歳。 ソラ
15年もの間、ずっと一緒にいてくれて、ありがとう。
天国でも、楽しむんだよ。
注意
この物語はフィクションです。
実在する人名・西暦とは何ら関係はありません。
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